「社会に出れば理不尽なことだらけだから,子供のころから慣れさせたほうが良い」
そんなことがまことしやかに語られることがある.
文の前半部分は少なからず間違っていないことは,ある程度生きいれば自ずと理解してくる.
中学の部活に入れば先輩の言う事は絶対という風潮があるし,成績が良い子よりもお調子者の方が先生に気に入られ大学の推薦枠をもらえてたりする.
そして,冒頭の分の後半部分は,そんな理不尽なことがあっても,その境遇で負けないようにするために免疫をつけておこうというものだ.何となく一理あるような気もするしが果たして本当だろうか.
教育するうえで,我慢を覚えさせることは目先の利益だけでなく将来を考えた行動ができるような子に育てるという意味で重要だ.
しかし,耐えることが目的となるような,理不尽さに慣れさせるという事に関しては,子育てに有効なのだろうか?
自分で判断できない人間になるリスク
理不尽に耐えるという事は,自分が納得できないことを他者に強いられていることだ.将来の目的があって,現在の苦労をとるという論理的な行動とはまるで違う.
つまり,理不尽に慣れるという事は自分で考えることを放棄するという事である.
社会に出るとどういうことが想定されるだろうか.
旧態依然とした,経済がとても安定していて,能力よりも在籍年数で給料が決まるような場合は,なるほど何も考えず,先輩や上司に従っておけば,いずれは自分もそのポジションにつけるので良いこともあったかもしれない.
だが現在は終身雇用も崩壊し,個人の能力が求められる時代となってきた.すなわち,ただ上の人が言っていることに従えば甘い汁が吸える状況じゃないのだ.
果たして,そのような状況で理不尽に耐えることに慣れた人は敏感に自分が置かれた状況を理解し,良い選択がとれるだろうか.一度決まったことを愚直にやり続けるというのは美談によく上がる話だが,自分で決断した結果であればそれもありだろう.
自分の人生は自分で決めなければならない時代に,理不尽さに耐える能力がどこまで必要かは甚だ疑問である.
我慢する力というのは,判断力が伴って初めて生きる力である.
自己肯定感の欠如がもたらす恐ろしさ
理不尽さに慣れるということはもう一つ恐ろしいことがある.
自分の意見が毎度通らない環境に慣れるという事は自分の存在を否定され続けるという事である.すなわち成長する過程で自己肯定感を喪失する恐れがある.
自己肯定感が弱いとどうなるだろうか.
理不尽な環境でも理不尽と判断できないのだ.
これはとても恐ろしいことである.
例えば,先の上司の話に戻すが,客観的にみれば上司は理不尽で言っていることに正当性が無いとしても,自己肯定感の弱い人はまず自分を責めてしまう.
自分が悪いからこんなに怒られているんだ..となってしまうと,周りを変えるよりも自分一人で解決しようとしてしまう.そして極限までおいつめられると,最悪の結末なんてことも想定されてしまう.
親に言われるがままに,遊びを我慢させられ勉強をガリガリやらされた子は,全員同一の物差しで評価される大学入試までは,なるほど成功するかもしれない.
しかし,その過程で自己肯定感が消失してしまっていると,自分が判断することは基本間違っているという発想が根付いており,行動力が極端に低い子に育っている可能性がある.
冒頭の発現に戻ると,確かに子育てでは将来の理不尽さに対する何らかの対策は必要かもしれない.しかし,それは理不尽に適応する能力よりも,理不尽な環境を認知し自分で対策ができる能力を身に着けさせるべきなのだと思う.
要は「自己中で我儘に考えた方がいい状況もあるぜ」ってことをいい感じに我が子に教えたいなぁと思っています(基本は良い子でいてほしい..).