正直ヨビノリみたいな理系大学生向けYoutubeチャンネルが学生時代に欲しかった件
多くの人は勉強と聞くと頭痛,めまい,吐き気,異世界転生などの症状に見舞われることだろう.
特に高校生までは全員似たような科目を必修させられる.
さして興味もない教科,板書するだけの授業に辟易してしまうことも少なくなかったはずだ.
そんなことは無い!全ての学びには意味があって自分の人生を豊かにするのだ!という崇高なお考えと理解力をお持ちの方は素晴らしい!!ぜひそのまま学習を続け,我々人類をその英知によって牽引いただきたい.
しかし私のような凡夫には,自分が興味を示せない勉強は苦痛でしかなく,更に教師側にプレゼンのスキルが無い場合は如実にテストの結果に表れた.
大学生になり,数学ができるってカッコよくね?とモチベーションに火が着いた時期もあった.
しかし,やる気とは裏腹に教科書は難解であり,教員の説明は相変わらず板書であり,できる友人に質問しても非常に天才的で直感的な説明を受けてしまい,もう無理―!!俺には勉強する脳みそが無いんです!!と半狂乱に陥ってしまった.
勉強それ自体が選抜の過程であり,それを理解できない者はそもそもその道に進むべきではない,という意見もあるだろうし,それはある意味では真なのかもしれない.
だが本当にその人に能力が無いのかを見極めるのは簡単ではないと思う.やる気がある生徒に対して,教える側が少し工夫すれば理解への道が開ける場合は少なくないはずだ.ひいては少子化でより効率的に人材を確保する必要があるという点でも,教育方法というのはそろそろ抜本的に見直しても良いのではないだろうか.
さて,突然であるが,最近私はヨビノリというYoutube ちゃんねるにドハマりしている.
このチャンネルでは講師たくみさんが,大学で学ぶ数学や物理を予備校のようなスタイルで授業を進める.
結論から述べると私が大学時代にこのようなチャンネルが存在していれば,私はもっと良い理系人生を歩めたなぁと感じている.高校までの数学の教科書も決して初心者に優しいものではなかったが,大学生向けの教科書など凡人では独学不可能である.
教科書は大学の教師の説明があって初めて成り立つような記載になっているが,前述のように大学の教員も教えるのが上手いと感じる方は一握りである.ましてや数学や物理を担当する教員は天才肌が多いようで,凡人に寄り添うような説明はしてくれないことが多い.
ヨビノリに話を戻すと,たくみさんは予備校教師の経歴,東大修士卒という肩書を持っているのだが,初学者が一度説明を聞いた際に躓くポイントをしっかり把握されており,非常に平易な説明をしてくれる.また,現在学習しているものがどういうことに役立つのか,背景などもしっかり教えてくれ,興味を引くのもとても上手だ.
また,講師自身ときおり混ぜるボケなども多く含まれており,Youtuber らしく動画の編集も上手で飽きさせないような仕組みも良い.他にも多くの学習コンテンツが増えてきているのだが,これほど大学生のニーズにマッチしたコンテンツは今のところヨビノリだけだと思う.
あなたが大学生であり,大学の授業が難しいと感じるならばまずはヨビノリから始めてみよう.あなた自身が能力が無いわけではないことが実感できるはずだ.
このようなコンテンツが無料で利用できるようになってきたら,教員や対面式の授業の役割というのは今一度考える必要がある.今までの平均点を目指す授業は既にこのような優れたコンテンツで十分カバーできるようなってきた.対面だからできる,生徒の力を伸ばすような教育を,学校では目指してほしいと感じる.
プレゼンの資料はシンプルで分かりやすくが基本で味付けは二の次です
大学生以降、もしくは社会人以降は何かしらのプレゼンテーションをする事が増える事が多いだろう。
プレゼンテーションというと、スティーブ・ジョブズの製品プロモーションのような大きな舞台でやるようなイメージがあるかも知れない。
実際は着席したままでも社内のチームミーティングや、顧客への商談で何かしら説明を実施するだけでも、広義でプレゼンテーションを実施したことになる.
多くの人はプレゼンをする際に目的があるはずだ.
例えば,マーケティング戦略や製品開発で上長承認を得るとしよう.
市場の分析と新製品のポジション,それらの結果売り上げにどう貢献できるか上長に理解してもらい,最終的に計画のGOを得ることが目的になる.
この場合,上長は提示された情報から意思決定をする必要があるので,プレゼンの中身は目的を達成するために最小限で分かりやすい構成になっている必要があり,シンプルであるべきだ.
よく見るのがアニメーションをふんだんに取り入れ,レイアウトやフォントにこだわるあまり,ビジュアルのインパクトが強すぎて主張したいことが全然入ってこないプレゼンである.
まぁ100歩譲って,とても主張したい部分でこれらのテクニックをとりいれれば,上長の理解,印象も良くなり,功を奏する可能性もある.
だがプレゼンはあくまで手段であって目的ではない.
たとえばCGや演出,アクションをふんだんに盛り込んだ非常にインパクトがある映画は確かに多くの人に興奮と感動を与えるかもしれないが,鑑賞後の感想や感じ方は千差万別である.シナリオはよくわかんなかったけどなんか凄かった!面白かった!などまぁ割とよくある話ではなかろうか.
プレゼン資料でも同じようなことをしてくる人がいるのだ.芸術的なまでにレイアウトにこだわり,扱う言葉も扇情的であるが,終わってみると何が言いたかったかよくわからん...
ここで上司が「説明凄かった!OK! Go !」などと言ってくれるのであれば,会社の行き先はいささか不安になるが,そういうプレゼンもありかもしれないが現実はそうはいかない.上司も自分の気持ち一つで承認できるわけではなく,会社からの成果へのプレッシャーを受けながら部下のプレゼンを真剣に聞いてジャッジしているのだ.
ましてや,多忙な管理職の時間を奪うようなプレゼンなど,どんなに凝っていても全くプラスにはならないのだ.
しかも,凝ったプレゼン資料をつくるとなると,作成者の時間もシンプルな資料を作る時よりも平気で2,3倍の時間を奪っていく.
これでは上司も部下も良いことがまるでない.即刻資料の作成に時間をかけるのはやめよう.
一方で「おいおいおい,おまえスティーブ・ジョブズ の話したじゃん?彼のプレゼンなんて仕掛けもいっぱいあるしインパクトも凄いじゃん.それで製品が売れているんならやはりインパクト大事だろ!」という人がいるかもしれない.
彼のプレゼンは確かに製品の説明の目的もあるが,聞く人に製品を認知,印象づけることも大事であり,彼のプレゼン自体がショーにもなっているのだ.
携帯各社のCMを見てほしい.大体が製品の性能や,サービスの質の説明に重点を置いたものではなく,一見すると何のCMだっけこれ?というものが多い.
消費者はCMを見ようと思ってみる訳ではない.まずはこんな製品やサービスがありますよ?といったメッセージを植え付けることが大事なのだ.
CMを見た後携帯会社へ説明を受けに行ってほしい.製品の性能と料金体系について分かりやすく説明してくれるはずだ.これもプレゼンであり,こちらは先の上司へのプレゼンと種類は一緒である.
会社員のプレゼンはまずわかりやすさ,印象付けるのは二の次である.
ド派手なショーはハリウッド映画か一流のエンターテイナーに任せるとして,自分の目的に沿った行動を心掛けられれば,その結果は伴うはずだ.
仕事や学校が自分の全てという考えはさっさと捨てましょうという話
昨今の働き方改革は一定の成果を挙げているように見える.
サービス残業を少なくしようという風潮は根付きつつあり,定時に帰っても東京の電車は満員ということもよくある.
パワハラセクハラは許されることなく,体育会系のような,役職が上のものは下のものよりも偉いという意識も大分変化が起きているようだ.
まるで部下を下僕のように扱うような年功序列を地で行く時代ではなくなり,役職はあくまで役職であり,求められている業務が違うだけ,という関係に変わってきた.
これらの変化は個人的にはとても喜ばしいことだが,対策が打たれるようになったのも様々なことが社会問題として挙がってきたからだ.
ブラック企業で働き過ぎで体を壊す,パワハラなどで最悪のケースまで追い詰められ手しまったケースなどが明るみになり大きく世論が動いたのである.
誰もが追い詰められることなく,人間らしく仕事ができる理想を叶える体制が整ってきたのは,このような悲しい事件があったことも忘れてはいけない.
だが一方で,なぜ人は最悪の事態に至るまで追い詰められてしまうのだろう.
どこにも逃げられないという錯覚が人の判断を狂わせる
文字どおり,追い詰められるというのは逃げる場所がどこにも無いということである.
自分が当事者でなければ,ブラックな環境で働く人の話を聞いたとき,労組に問題提起するか転職するかなど,妥当なアドバイスができるように感じるだろう.
しかし,その環境に身を置く当人からすれば,外からのアドバイスよりも,自分の属するコミュニティの言葉の方が重く受け止められてしまう.
一昔前は,一つの会社を定年まで勤めあげるのが理想とされていた.
これは逆に言えば,自分が属するコミュニティからは定年まで逃げられないことを意味する.
例えばあなたが終身雇用が当たり前の会社で営業部門に所属し,なかなか契約に結び付かず上司に罵詈雑言を浴びせられていたとしよう.
周りの同期は厳しい環境にも耐え,成果をだしているのに,自分だけそのような環境にいた時,あなたはどう思うだろうか.自分に才能が無いから,努力が足りないからとより自分を追い詰めてしまうのではないだろうか.
ある意味洗脳のような状態なのだが,単一の社会で生き,それが当たり前だと思ってしまう事はとても恐ろしいことだ.
最近は自分の属するコミュニティ外のことも,インターネットを通じて知ることが出来るようになってきたし.近年は終身雇用を保証できる会社がない為,そもそも転職も当たり前になってきた.
副業も解禁されてきて,稼ぐ手段も一つではないことが認知されてきた.
終身雇用を絶対正義のように語るような人もいるが,私自身は最近の会社と社員の関係性はとても好ましい.人間性は束縛されず,真に業務のみで結びついているのである.
愛社精神など会社が社員を都合よく使うための言葉に過ぎない.自分の意志でどこへでも行けるというのはとても気持ちが楽である.
では元をたどればこの同調圧力というか,輪を乱さず,周りの環境に合わせて生活することが大事という事はどこから教わっていただろうか.
もちろん家族というのが最初のコミュニティではあるだろうが,やはり他人と共同で生活することを学ぶのは学校である.
例えば中学校である.通常,中学生は学校と家庭の2つのコミュニティを行き来する.
ある生徒がクラスでいじめを受けたとしよう.
中学生にとって世界のすべては学校にある.その学校でハブられたり,いじめられたりしたら,自分が異端の存在で,周りが正しい,自分はこの世界で落ちこぼれなんだと追い詰められてしまう.
いじめばかりではない.日本の教育は全員で平均点を目指すような評価をする.
コミュニティの平均点を無理やり押しつけようとすることも少なくないだろう.
美術は天才的なのに,主要五科目ができなければ評価はされないも同然であることも珍しくない.
その子は自分の才能は社会では無価値だと感じてしまうかもしれない.
では,この子が中学だけでなく,他のコミュニティを知っていたらどうだろうか.
美術で生計を立てている人と実際に交流し,考えを共有し,自分が歩むべき道が見えている子であれば,多少中学で自分が周りの子と違うと感じていても,問題のない中学生活を送れるか,いじめにあいそうにあっても,すぐ逃げる準備ができるだろう.彼女にとって中学は世界の全てではなく,ただの通過点であることを認識できているのだから.
三つ子の魂百まで,とはいうが,三つ子とはいかずとも,中学生からは周りに合わせるという事よりも,ある程度自立することを教えるような教育システムにしてほしい.
中学を通過した後に何があるのか,そのために今は何をしているのか.そういうことを頭ごなしでなく教えてくれるような中学教育を望みたいものだ.
リソースや権限から現場の先生方ができることに限界があるのもわかっているし,皆が頭ごなしで指導していないことも存じているが,これからの社会は既に,周りと同じ道を歩めば安泰であるような時代ではない.教育も時代に応じて姿を変えていくことも,現場から発信してほしい.
さて,自分の人生一度しかないし,誰かの名言であるように配られたカードでしか勝負はできないのである.
他人の意見にばかり気を使うよりも,じっくり考えてみて自分の歩く道を決めてみよう.
他人の意見を参考にするときは,取り敢えず自分でも考えてみようか
人の意見は全く気にしないというのは難しい.
大勢の流行りや意見に自分が乗っていないと仲間外れになっていないか不安になったりする.
中学校は正にその入り口,洗礼を受けるような場所だ.
群れの中で自然と生まれるルールというか,見えないしきたりのようなものが自動的に出来上がり,同調できないものは仲間外れにされてしまうこともあり,自分を守るために本音を隠すこともある.
ゆず がクラスで流行っている時に,「いや,19 こそ至高なり」と主張するにはそれなりのクラス内カーストに位置しているか,己の学生生活を天秤にかける必要があった.
しかし,普段は周りに合わせるような生活をしていても,自分が人とは異なる意見を持つことを認識しているならば,真に自分のために重要な決断を下す際には正しい道を歩む意思と勇気を持てるだろう.
問題は自分の意思決定を完全に人に預けている場合である.
永遠の5歳児がぼーっと生きる人達をひたすら恫喝する番組があるが, まさに何となく人に流されて生きている人(もしくは自覚が無い人)は注意が必要だ.
ヒューリスティックという行動経済学用語がある.
これは人の意思決定は必ずしも論理的であることや参考にする情報が正確であることを重要視しないというものである.
例えば就活などで「説明会には私服でお越しください」と明記しているのに,同じ会に出席する意識高い友人の「我々は試されているのである.スーツを着ていくべき」,という言葉を真に受けスーツで出席してしまうような場合である.
明らかに企業からのオフィシャルな通知は信頼度が高いはずなのに,身近なよく知っている人の意見を人は重視することから起きる事柄だ.
これはテレビ番組や,芸能人の発言でも起こりうる.
時として,メディアやSNSから発信される情報は何の根拠もなく,個人の感想や考えであることがある.
しかし,人はこれらの情報が,あたかも何時でも真であると信じ込んでしまう習性があり,大勢が乗っかると世間の流れすらもおおきく変えてしまうのだ.
どんなに大規模な,綿密に計画された試験や研究で実証された事実および結果よりも,感情に訴える表現が濃厚な5分の動画で他人の意見は変ってしまう.
ニュース番組ですら,作り手の意向は必ず反映されているし,ネットニュースなど見出しはかなり誘導的なものが多い.
メディアやSNSからの発信を含め,情報や誰かの意見に触れるときは,自分の意見が無意識にコントロールされていないか,伝えられているメッセージは客観的に見て信頼できそうかなど注意して見るべきである.
さて,ここまであまり人の意見に流されないようにすべき,といった論調で進めてきたが,ヒューリスティックも上手く使えば意思決定を早くするのに役立つ.
例えば家電の購入の際に,流行りに乗って新商品を使いだすというのはあまり賢い選択ではないかもしれない.
しかし,売れ筋ランキングで上位が長い間続いている製品などは顧客の満足度が高いことの証ともいえるので,性能などを調べたり,他の製品と比べることなく選んでも,結果は大きく変わらないはずだ.
何が良くて製品が売れているのかわからないが,自分が家電に明るくないならいちいち勉強して製品比較するより,さっさと購入してしまった方が手間を含めてもコスパが良いだろう.
全ての行動に正確な情報が無くても,割り切って行動指針を明白にすればシンプルに行動できるし,自分が間違った道を進んでいても気づけるだろう.
この情報供給過多な時代において自分のために人生を歩むためには,己の意見をしっかり持つことが最重要事項ともいえるかもしれない.
しっかり研究で裏付けられた情報です,エビデンスが伴っています..ってそれ本当?
最近の健康ブーム,筋トレブームは一昔前とちょっと違うところがある.
それは情報の質を重要視してきたという点である.
ちょっと前までは健康ノウハウ本のような書籍を閲覧すると,その道の第一人者が自身の経験や考えに沿ってノウハウを伝えるものが多かった.
「私はトマトを食べ続けてウン十年,風邪など引いたことがない.見たまえこの著者近影を.流々とした筋肉,還暦を超えたとは思えない健康的な表情.全てはトマトが私の細胞のレベルを最大限に活性化し,ヒトとしての限界突破を可能にした結果だ..トマトこそ神の果実なり.トマトを食すのだぁぁぁぁ!」と,まぁちょっと誇張したがこんな感じだった.(※トマトは例に使っただけです.なんでもいいです.トマト好きな方にはすみません.)
最近の書籍はある程度論ずることに根拠を提示するようなものが増えている.
例えば,××大学の研究で□□を摂取した人は○○を発症するリスクが低下した..などという文を加えて自身の論拠としていることが多い.
これは自分だけの考えではなく,ある程度客観的事実に基づいてますよ,という事を示すことになり,読者も第三者が作った証拠があるということで著者の意見をスムーズに受け入れることができ,双方にメリットがある.
凄い本だと巻末にどの文章にどの文献を引用したかをかなり詳しく,大量に載せているものもあり,研究論文並みのものまで存在する.
では,研究や検証された事実が引用されて作られた記事はいつでも質が高く信頼できるのだろうか?
答えは「否」である.
その理由をいくつか挙げてみよう.
根拠になっている参照情報を改変して使っている
多くの書籍の文で引用されている研究は,一つ一つは一文借りてくる程度である.論文の結語や主要な研究結果を一言載せる程度だ.
根拠とする元情報を婉曲,または拡大解釈して引用していることも無くはない.
引用元を見てみると導かれた研究結果のほんの一部にも関わらず,本文中では様々なことが証明されたように記載されることもある.
例えば,コーヒーを飲んだ後に摂取した1割の人が計算力が向上したという結果を示す論文があるとしよう.
書籍の本文中では「コーヒーを摂取すると学力が大幅に向上したという結果が存在する」という記載の引用文献にになっていることがあるのだ.
これはかなり意図的な引用の仕方で,悪意があるといっても過言ではない.
引用元にも迷惑をかけているし,世間に適切でない情報を流していることになる.
導き出した結論の対する研究の質が低い
これは研究結果が,導き出された結論に対して証拠のレベルが低いことがあるという事である.
例えば,肉を大量に摂取する人はそうでない人よりも何かしらの病気にかかる人が多い,という研究結果があるとしよう.
この場合,この結果をもって「肉は体に悪い」という結論を信じるべきだろうか?
肉を大量に摂取する人はそもそも健康に気を使っていない人が多いかもしれないし,野菜をとっていない人が多いかもしれない.体重が重い人も多いだろう.
肉を大量に摂取する人達としない人たちでは,そもそも日常生活の送り方が違う可能性(バイアス)があるのだ.
これを統計の専門用語では交絡というが,研究結果に別の背景因子が影響を与えてしまう事を指す.
このように研究のデザインの質が低く,導かれた結論だけ声高々に主張するものも無くはない.
研究の質など考慮せず,自分の意見に都合がいいような結果を示す論文を引用文献として都合が良いと考える書籍の筆者も存在するだろう.
では,我々は書籍を読むたび,引用された論文を毎回さかのぼる必要があるのだろうか?
私見としては,自身が何かの専門家を目指すのでなければ,そのような行為は不要だとおもう.
大事なのは常に自分の考えを以って人の意見に触れる事である.
声の大きい第一人者やインフルエンサーの意見は説得力があるように感じるし,ましてやそれに根拠資料など提示されれば,人はそれが真実でなくともいとも簡単に騙されてしまうだろう.
そうはならないためにも,提示された情報が常識的に考えて妥当であるかはしっかり考えるようにしよう.
自分で考えて腑に落ちるならば,そのまま自身のものとすればいいし,そうでないなら,別の書籍を読んで確かめたり,人と話してみるのも悪くはないだろう.
早起き..始めてどうだい?調子は良いかい?
早起きは三文の徳という諺があるくらい、朝起きるのが早いということは良いことだとされている。
ビジネス本界隈でも、如何に早起きの効果がすごいかを語る自己啓発本、早起きする習慣を身につけるノウハウ本が多く出版されている。
大体内容はこんな感じだ。
- 朝余裕のある時間をつくり自己学習に当てる。
- 空いている電車に乗れる。
- オフィスに人が少ない時間に出社し、邪魔されず集中して仕事をこなす。
- 仕事を朝集中して仕事を済ませることでその分早く帰宅し、アフターファイブを有意義に使う。
なるほど、上記に挙げたことは早起きする事のメリットとして間違っていないかもしれない。
一方で、これらのメリットは社会人の中でも、オフィスに出社し、会社の勤務時間に自分のリズムを合わせる場合しか想定されていないように思う。
結局1日に使える時間は睡眠時間が変わらないなら早起きだろうが遅起きだろうが変わらないはずだ。
人がいない時間に集中したいというのなら夜遅くに人が帰ってから集中すればいい話だ。
在宅勤務ができるならいつでも静かだし、オフィスにいる時より他人に仕事を邪魔されることもない。
更にいうと、そもそも早起きに慣れていない、合わない人を無理やり朝方人間にすれば健康的な生活が阻害さらるリスクがある。
最近では、人によって適した入眠、起床時間があることを示唆するような研究が多く報告されているし、早起きそれ自体が健康リスクを挙げる可能性を示唆する報告もある。
私はどちらかというと、朝が凄く弱い。
少なくとも太陽が昇り始めてからでないとスッキリ起きる事が出来ないし、無理やり体を起こすと一日中体調が悪い時もある。
ビジネスの世界では素早くスタートを切るという事は重要である。
だが、一日のたかだか2時間程度人より早く動いたからって仕事の総量が同じであれば翌日稼いだアドバンテージは1日でリセットされる。
無理して早起きするくらいなら自分の体調をベストに持ってこれるような起床時間を探るべきだ。
あまり流行に流される事無く、自分に合ったライフスタイルを模索してみよう。
英語のできない深刻さは内資と外資でどこまで異なるか
英語でのコミュニケーション能力が、グローバルな環境で仕事をする会社員にとって大事なスキルであることは述べるまでも無いだろう。
だが、所属する会社が内資系か外資系かでは、そのスキルを持たないことの深刻さが全く違う。
外資系なんだから英語を使う機会が多いの当たり前じゃん、と言った意見もあると思うが、私が述べたいのは頻度の問題ではない。
内資系でも、グローバルに事業を展開しているなら、部署によっては下手な外資系に所属するよりも英語を使わなければならない機会は多いはずだ。
英語でのコミュニケーションに求められる質の違い
内資系では基本的に日本に本社がある。
つまり殆どの意思決定の主権が日本人にあることが多い.
これはどのような意味を持つだろうか.
例えばあなたが海外出張などで現地支社の社員とプロジェクトを共にすることになったとしよう.
彼らは恐らく,こちらの英語が多少拙くても一生懸命聞き取り,理解しようとしてくれるはずだ.また,打ち合わせで祖語があったことが確認されたなら,あとから指示をいれてもある程度修正が効くことが多い.
日本内資の支社で働く外国人は,日本人が英語があまりうまくないことや,日本人の主張が苦手な特性などを理解し動くことに慣れている.また,本社の社員という事もあり,意思を尊重してくれるのだ.
つまり多少英語が苦手でも根気と一生懸命さで何とかなることが多い.
出川イングリッシュを見たことがあるだろうか.
あれを実行できることはとてもすごいことだが,相手の好意が無ければコミュニケーションは成立していないのだ.内資系で英語が下手なのにプロジェクトが進んでいるというのは相手の聞く態度にある程度甘えているという事になる.
ところが外資系で働く場合はそうはいかない.
外資系企業では日本はあくまで支社の一つである.もちろん本社は海外にあるし,コンタクトする相手は外人であることが基本であり,直属の上司も外国人であるかもしれない.
彼らは基本的に多忙で,効率的に物事を進めることを好むので,会議などでのコミュニケーションの時間は限られる.英語が苦手でも根気で乗り切れる,時間をかけたコミュニケーションはできないのだ.また,主張が苦手な日本人の特性など知ったことではない.
彼らにとっては,どんなにスキル面で優秀な部下で合っても指示や報連相に難があると自分の思い通りに動いてくれないとやきもきし,結果的に日本支社においても人材の外国人化が進んでしまうのである.
大変残念ではあるが,外資系では必ずしも業務処理能力が高い人が評価されてないことが多い気がする.
バイリンガル人材は本当に重宝され,多分に仕事が任される.結果的に経験を積み重ねれば,元々能力が高い人よりも優秀になるのだ.
もちろん外資系においても,英語が必要ない部署に属して仕事を進めている人もいるだろう.しかし,昇進すればするほど,海外の本社に近づくわけで,英語でのコミュニケーションは免れなくなるのだ.その時になって慌てても後の祭りである.
仕事の多くはコミュニケーションで形成される.
その根本である,言葉が不自由であるという意味を理解せねばならない.
英語の学習面では希望もある.もし高校生までの英語を受験勉強まで完了しているのなら,英会話の向上はゼロベースではない.他のスキルを身に着けるよりも実際は楽なはずであり圧倒的にコスパに優れている.
今は英語を使う職種ではない,またはその希望は無くても,グローバル化の時代,何がある分からない.
自分の可能性を潰さないためにも,今英語学習を始めてはいかがだろうか.
考え方や意思決定が経験頼りになってきていませんか?
年をとるにつれて趣味嗜好や考え方が変化することは大多数の人に当てはまるだろう.
単純に脳が老化していく影響もあるのかもしれないが,一番大きいのは経験の積み重ねだと思う.
20代後半にもなると,社会人としての経験も増え,自ずと自信もついてくる.年次を重ねた管理職の年齢だとより自身の経験は意思決定の柱になるのではないだろうか.
経験が豊富であることは,基本的には悪い意味には取られない.人は失敗から物事を学ぶことも多いし,スキルはやればやるほど磨かれるものである.中途採用などで即戦力が求められる時は業務経験の有無は人選で最重要事項だろう.
一方で,「経験」が時に自身の能力に制限をかける要因になることを念頭に置いておくべきだ.
経験したこと以外を全て認めず否定してしまう恐ろしさ
社会の厳しさというか、稼いで人生を成り立たせる難しさというのを経験してしまうと,どうしても批判的な目が育ってしまう.
私自身,例えばドラマやファンタジーを含む映画のご都合主義、論理的な甘さにすごく目が行くようになった.特にシリアスなシナリオであればあるほど現実との比較をしてしまう.
ピンチに助っ人は飛んでこないし、そもそもピンチになる前にリスク対策したのかよ、顔が汚れると力が出ないならスペア持っとけよ,とかまぁホントつまんない評価をしてしまうのだ。
自身の経験が物事を見る目に反映されてきていることを意味しており,仕事の上ではリスクを感知できるセンサーが備わるようなもので,上手く活用できれば有用だと思う(人生を楽しむうえでは邪魔かもしれないが..).
しかし,物事の判断をあまりにも自身の経験に頼り過ぎると,大きな成功への道を自ら閉ざすことになる.
現代は目まぐるしい変化が日々起きるような時代であり,今日できなかったことが,技術革新によって,明日できるようになっていることもある.
すなわち,新しい概念や考え方を自分が現時点で持つ経験から批判的な目で見てストップをかけるという事は,未来を迎える機会を自ら捨てているという事になる.
内資系の企業であれば,毎年ひよっこ新人社員が入社してくるだろう.
彼らはもちろん社会人経験は無く,持っているスキルは未熟でビジネスマナーなんてもってのほかだ.
経験をベースに物事を考える先人たちからすれば,仕事のできない若造の集団である.
彼らの意見などハナから疑ってかかるはずだ.
しかし,冷静に考えてみると彼らにも十分アドバンテージがある.若いというだけでなく,会社に染まっていない分,新しいことを考える力や,会社の現状を俯瞰的に見れる貴重な存在のはずだ.
彼らの提案を,自分の成功や失敗の体験から,最初から斜に構え,否定的な目でとらえていないだろうか.なんども提案を却下して再考を支持し,最終的に自分の考えに沿ったものにしていないだろうか.
もちろん,新しいことをやるときは,リスクアセスメントは不可欠だ.重ねて記述するが,批判的な目は使い道を間違えなければとても役に立つ.
物事を前に進めることを前提に行動し,そこに経験を絡めた意見を提示できるようになれば,自らの発想力が無くなってきても老害と呼ばれることなく,有効に能力を発揮できるはずだ.
従業員の新しい評価システムってどんな感じ?変化が激しすぎる現代です.
半期、年度末なのかは会社によるかもしれないが、人事評価は期初に上司とすり合わせた目標設定を元に達成度によって、ランク付けされるというのが一般的では無いだろうか。
業務内容に大きな変化がないような職種なら、最初に設定した目標に向かって進めることは効率的なので、このようなシステムは有効と言える。
一方で、最近ではそのような人事評価システムが時代遅れになってきている面もある。
最近ではagileという言葉もビジネスで流行っており,大きな計画を動かす前に多くの実験的なプロジェクトを短いスパンで行い、改良しながらあたりをつけて一気に大規模で事業を動かすというスタイルだ.
外部変化はもっと強烈にビジネスに影響を与える.政治,テクノロジーの発達,グローバル化..どれも先が読みづらく,柔軟に環境の変化に対応できなければ企業は生き残れない.
このように近年は社内外の変化が大きすぎて、一従業員のレベルでも期初に立てる目標が、期末までに実施してきたことと乖離してしまうことが少なくないだろう。
そこで最近ではあえて年次のランク付けをしない「No rating」という考え方が日本でも浸透してきているようだ.
www.kaonavi.jp
Agileの環境下では,小まめに現状把握と計画の修正が必要である.No ratingでは,年次最後の評価者との面談の代わりに,頻繁にすり合わせ面談を実施する.
年間を通して部下がどのように取り組み,結果を出してきたかをしっかりモニタリングし総合的に判定しようというものだ.
常に評価者とすり合わせることで,情報の抜け漏れや意見のすれ違いなどが防げるし,適宜目標を状況に合わせて設定し直せるので,形骸化した目標に追われることが無く,効率的に業務遂行ができる.まさに変化が読めない現代に合った評価システムに見える.
一方でデメリットも存在する.これを達成したらA,これがダメだったからマイナス,というような基準が見えにくくなるため,自分が正当に評価されているのか非常にわかりづらい.
会社の給料に払える財源は決まっているので,どんな評価システムの下だろうと自ずと部署内で相対評価する必要がある.従来のシステムではランク付けがしっかり本人に公開されるので,納得度としては高いものになる.
一方でNo ratingはランク付けが無いだけで,評価はされている.ここが曖昧になるのだ.
面談が多いこともデメリットかもしれない.そもそもプロジェクトの進捗報告などできていない場合は問題なので,わざわざこの時間を設けるのも二度手間である可能性がある.
恐らくこのシステムを導入している会社の社員はそれなりの説明を受けているだろうが,それで納得できているかは不明である.相対評価で各ランクに当てはまる定員があったものが,一律同じ評価にされて,財務面でのコストカットに使われていたら最悪である(あまりないとは思うが..).
どんな評価システムになるにせよ,一従業員が異を唱えたところで会社の方針はそう変わらない.ただし,このシステム変更によって自分が正当な評価を受けないと感じた時,外の環境へ身を移すことが出来るようにしておくことも,この変化が大きい時代の一つのリスクマネージメントの形だろう.
とある海辺のカフェにおける順番待ちの暇つぶし
※特に有益な情報や意見は含んだ記事ではありません。脚色も多分されています。
旅先で適当に車を走らせていると、いい感じのビーチを見つけたので、散歩することにした。晴天でエメラルドブルーの海が眩しく輝く。
しばらく砂浜を歩くと、如何にも「インスタ。。挙げてくだろ?」といわんばかりの洒落たカフェを見つけた。
私はインスタやFacebookのようなソーシャルなインターネットには手を出せずにいる。会員制と聞いているので、いつかは入会の案内が郵送されると思うのだが、未だお誘いはない。仕方がないのでこのようなネチネチとしたブログで独り言を呟くのみである。
とくに一見さんお断りの標識は見当たらなかった。SNSをやっていなくてもオシャレなカフェで海を眺めながらアイコー(アイスコーヒー)を飲んでも良いのだろう。入店することにした。
店内に入ると,流石ににハイソなカフェである。よくコメダコーヒーとかで目にするような味わいのある手書きの順番待ち表ではなく、タブレットで順番待ちを登録するようだ。
店内を見渡すと、そこそこ客がいるようだが、奥の砂浜に面したテラス席はガラガラと言って差し支えなかった。私はテラス席希望にチェックをつけて、順番待ち票を発券した。
「ウフフ カフェ飯」と気分の高揚を感じながら、ふと発券された自分の番号をタブレットの画面上で確認すると30分待ちと書いているのに気づく。
席はガラガラなのに30分待ち?そうか今席は空いているけど既に予約していた先客がいたのだろう。私としたことがタブレットという最先端のテクノロジィに慣れず確認できていなかったに違いない。
反省、反省☆とほっぺを指で突き刺し舌をだしながらもう一度タブレットの画面を確認する。私の前にテラス席の予約客はいないようだ。
なぜ。。?幸いにして正月休みの身であるので、30分という待ち時間はそこまで苦にもならない。スマホのニュースや動画を見ていればあっという間である。
だが私はこの謎を解き明かしたかった。新年最初のリアル謎解き、まさに八百万の神からの宿題である。これが解ければ、ドリンクのトッピングくらいはおまけになるかもね。
推察1 特別予約席である
タブレットには表示されない,正にVIPのための席.しかし予約席には「reserved」などの表示があってもいいはずなのだが,特にそのような感じではない.食器が放置された机もあるので,少なくとも空きがあるようには見える.
推察2 そもそも席ではなくインテリア
イケてるカフェだけあってイスやテーブルも木目調のインスタ映えするオッシャレーなやつである。もしかしたら、テラス席で本当に使えるのは今客で埋まっているあの席と食器の席だけかもしれない。
推察その3 イケている客しか座れません。
唯一席が埋まっているテーブルを覗くと、それはそれはイケてる男女が食事を楽しんでおられている.外から一番目立つ席だし客も選ばれているのか?しかし我々も30分後に座れるのである.見た目ではじかれているわけではないのだろう.
推察その4 肉眼では確認しづらいスピリチュアルな何かしらのための席
私の第六感はあまり感度が良くないので,これが正解であった場合はどうにも確認できない.でも,まだ昼だしそういう方はまだ活動時間ではないのでは?
..と色々考えているうちに腹も減ったし子供も騒いできた.そして店内の席に空きがでそうなので,口頭で店員さんに店内でも構わないので案内いただけないか確認すると,すんなりOKが出た.
結局回答は出ないまま,オッシャレ―なホットケーキにありつき,家族一同満足して店を後にした.
念のためもう一度テラス席を見ると,さきほどより3-4組増えていた.私の推察1-4はすべて崩れ去ってしまったのである.
私はこの謎を解けないまま,店を後にしてしまうのがとても残念であった.
次回こそは,この謎を解くべく来店し,朝から夜までホットケーキを食べ続けながらテラス席を観察することを誓った,そんな2019年の始まりであった.
あなたは子供を東大に入れたいですか?
「お父さん 私は東大に行きたい!」
「そうか。それではまず大江戸線で本郷三丁目駅を降り、しばらく歩くと赤い大きな門があるから,そこをくぐるともう東大だよ」
志を語る我が子にそんなジョークかませるなら①良好な親子関係を築いている②家庭内に深刻なミスコミュニケーションが発生している恐れがある、のどちらかである。
後者にならないよう重々気をつけていきたい。
さて、子どもを東大に行かせたいというと、ちょっと前までは如何に子どもの勉学面を親がコントロールしてあげるという事に言及していることが多かった。
東大に入ってさえしまえば後は万事OK!バラ色の人生!という前提を否定する事も無かったので、子供の精神面や肉体面での成長を無視してもいいような意見も書籍やネットに溢れていたと思う。
ところが最近では非認知能力とよばれるような,努力できる力,他人との協調する力,自律的に動く力など,数値では測れないような能力の重要性が認識されてきた.
最近の子供の成長に関わる本に関しても,ただ一人の成功例が万事に通用するような親の成功体験をかたるような書籍でなく,ある程度エビデンス(実証,検証された情報)を持って育児をかたるような意見が増えている.
子どもの自主性を伸ばし,自ら行動できる力をつけるのが現代社会に合った教育かも
例えば,少し前のベストセラーである「学力の経済学」では,幼児期に受けた高度な教育が,その教育を継続しなくても後々の学歴や社会人人生に大きな影響を与えることや,ほめ方,しつけの仕方の影響などをある程度規模の大きい実験で検証したものを根拠として示している.
洋書であるとこちらも有名であるが「GRIT やり抜く力」という書籍が流行していた.
このやり抜く力というのは昨日記事に触れたような理不尽を我慢する力ではない.
「目標を設定し,そこに向かって工夫しながら努力を継続する力」というものだ.
この本もある程度エビデンスベースでストーリーを展開している.
親の子供への接し方という点において,独裁的な親主導な子育てではなく,子供のほめ方,しかり方が如何に重要かという事を述べている.
即ち,子どもの自主性を尊重しながら,正しい方向へ導いてあげるのが良い子育てという事になる.
自主性を尊重するというのはとても大きな意味があって,自分で意思決定をする能力がつけられるという事だ.親が目標を設定してばかりでは,忍耐力は仮に教育の過程でついても一人で生きる力をもたないまま大人になり,大学に行く意義も見いだせないような状態に陥ってしまう恐れがある.
目標を設定されたら何も考えずに努力し続けてしまうという特性も問題であり,ブラック企業などの理不尽な環境に身を置いたとしたら,自分が壊れるまで働いてしまうだろう.
先の二冊はどちらかというと海外のエビデンスをベースとして論じられていた.
最後の一冊はそのもずばりのタイトルである.
「東大生を育てる親は家の中で何をしているのか」
こちらは日本の進学塾の経営者から見た,賢い子を育てる家庭に共通するものを論じたものだ.実証されたデータを使ったものではないかもしれないが,結果を出さなければならない経営者視点での多くの経験をまとめたという意味で,個人の成功体験よりは再現性(同じことを実施すれば同じことが起こる)が高いものなのだろう.
こちらも内容としてはやはり子供の自主性を伸ばすような家庭にすべき,というものである.
自主性を伸ばすというと,子供のやりたい放題,放任主義というように聞こえるがそうでなはい.
先に述べたように,自分で目標を設定して,成し遂げる力をつけるということである.
この本では具体的に何をすべきかということを論じている.先の二冊で自主性の有用性を感じ取れれば,この本で書いているようなことを実践すれば,お子さんはもしかしたら..日本で一番の大学に..いけるかも??
ただ,誤解しないでほしいのは,最近の終身雇用の崩壊など社会が大きく変わり,ただいい大学を出れば安泰という考え方を推奨はしない.
いい大学で優秀な人材と交わり,しっかり自分で自分の能力を向上させるためには自主性が大事,という事である.大学進学はその過程であるべきなのだ.
何を学び,どのように行動に落とせば,自分の描く将来にいい影響がでるかを考えられるようになれば,自ずといい大学に行けるだろうし,仮に不運にも大学受験に失敗しても自ら道のりを修正して目標に向かって走り続けられるだろう.
冬の寒さの中,外敵から身を守り如何に健康を保つか
寒く乾燥した日々が続き,朝起きるのも楽ではない.
正直こんな時は出勤などせず家にこもりNetflixでも見ていればいいのだが,世の中の大半はそんな悠長なことは言ってられないだろう.本当冬眠したい.
しかし,外に出れる元気があるならまだいい方だ.この季節は様々なウィルスや細菌が猛威を振るう.こちらは寒さで免疫が低下しているのに,奴らは最強モードになり襲い掛かってくるのだ.
実際数値にも現れており,定点医療機関当たりインフルエンザ患者報告数は過去5年のグラフで最悪の数値を示している.
東京都感染症情報センター » インフルエンザの流行状況(東京都 2018-2019年シーズン)より
このような状況でも人は外にでなければならない.電脳時代が到来すればこんな話題も必要ないのだろうが,そうも言ってられない.
人は健康であれば大体の事は乗り切れる.すなわち健康でないと結構つらいんです.
インフルエンザを含めて感染症予防という観点で,我が家でも対策をしているので共有したい.
帰宅したらまず..
ウエットダウン(液体をかけて湿らす)である.家に帰ったら我が家では除菌,抗ウィルス効果のある液体で全身をスプレーする.コートはその場で脱ぎ,玄関から持ち出さない.
もちろん,除菌,抗ウィルス効果を狙ってスプレーをするというのは大事だが,より効果的と考えているのは濡らすことで,これ以上菌やウィルスを室内に飛散させないという点である.
濡れた状態であれば,移動しても服や体からそれらをまき散らさず風呂場へ直行できるのできる.洗面台でうがいをして,その場で脱衣を完了し,洗濯機へぶち込み,シャワーで全身を清めるのである.
可能であれば湯船も予約でためておくとよい.入浴して体を温めれば,免疫も力強く応答してくれるはずだ.
風呂から上がったら..
おいしいごはんである.私は栄養士ではないのでよくは存じ上げないが野菜とタンパク質,糖質のバランスが取れていておいしければとても良いと思います.病は気からなのでご飯がおいしいととてもいいと思います.食事に関しては以上だ.
就寝時に一番問題なのは体が冷えること..も大事だが,のどの乾燥が一番まずいと思う.
加湿器があればベストなのかもしれないが,結構準備も面倒で手入れしていないと逆に部屋を汚染しているのでは?と不安になってしまうこともある.
我々はもっと手軽にウエッティな環境を作り出せないかと試行錯誤した結果,一部の洗濯物を寝室につるすことにした.部屋のドアを閉めて寝ると,存外いい感じに湿度を保てるのでおすすめである.景観が気になる方は洒落たお洋服を吊るすとよい.
ここまですれば家に持ち込む悪いやつらを最小限にし,こちらの勢力を最大限にできていると自負している.もちろん,一般人が日常で出来る範囲である.
予防策を本気で考え始めると,最終的にはバイオ的なハザードに対応できるくらいの格好で通勤,通学せねばなるまい.
そうなるくらいならやはり安全に家にひきこもりNetflixでドラマを鑑賞した方が良い気がするので,企業や教育機関は冬はNetflix休暇を作ったらいいんじゃないでしょうか.
後輩にせがまれ,先輩は自らの転職経験と顛末を語る.
※特に有益な情報や意見は含んだ記事ではありません。脚色も多分されています。
先日 大学の後輩から転職の相談を受けた。
彼曰く、今の職場は自分の高いスキルを活かせない、給料が見合っていない。彼女ができない、やりたいことができないなど不満たらたらである.
分かる。彼の言い分はすごく分かる。私も転職を決めた理由は似たようなものだった。
上司が話しかけてくる、業務中はスマホが触れない、デスクワークは健康に悪い、上司の筋肉がモリモリで威圧感がある、週5日勤務はしんどい、などである。
幸いにして私はうまいこと転職することができた。
面接では,如何に自分がオンシャに興味があり、ケイエイリネンに共感し、自分が持つスキルをもってしてイノベイションを引き起こし、エクセレントなアジェンダをフィックスできるかを語った。
先方もこちらの経験の浅さが気にはなっていたようだが、「うーん、期待を込めて星3!」と最終的には双方熱い抱擁で入社に至ることができた。
ただ、給料は据え置きであった点は誠に遺憾であるし、週5勤務であることも妥協する他なかった点に関しては労働組合で声高々に訴えて所存である。
そう、転職なんてやろうと思えばできるのだ。彼にいま言えるのはそれだけだ。
一方で彼が聞きたいのはそんなことではないのだろう。
「そんなことが聞きたいのではないのです」
それ見たことか、最近の若者は結論を急ぎすぎる傾向にある。情報過多時代の副作用であろう。
私と12カ月も年が離れる新人類は言葉を早口で紡いだ。
「僕はとても慎重派なのです。私の友人達も賢く手堅く生きる者が多い。今までの安寧をかなぐり捨て、轍も無い、一寸先は漆黒の闇であるかもしれない荒野へ踏だすような向こう見ずは先輩しか知らないのです。」
見たまえ。彼は5つあった唐揚げを私が4つ食べたことにも気づいていない。注意力が三万しか無い証拠である。この愚か者に私の金言は馬の耳に念仏、猫にギガ放題、ジンジャーにエールである。
結果的に先輩が今の職場に満足しているのであれば、私も少しの勇気を持って、「ビズリーチ」と呟きながら転職サイトへの登録ができるのです。どうか、先輩の無謀な旅の行方がどのような結末に至ったか教えてくれませんか?
彼の言動は多少なりとも私の心に致命傷を与えたが、メガネの奥で半分垂れ下がったまぶたの下からのぞく充血した眼は本物である。
紅潮したほっぺたも彼の熱い気持ちを感じさせるのに十分な証である。6本の空き瓶ビールもうんうんうなづいているようだ。
「そうね。まぁ今の職場環境にはとても満足している。上司は中肉中背だし、スマホも多分触っても怒られない。そして何より」
後輩はゴクリと喉を鳴らす。7本目の瓶ビールがか空いた。
「バランスボールに座ったまま仕事ができるのさ。とても健康的な環境だ」
後輩はグラスを片手に目を見開いたまま固まっている。私のあまりの発言の衝撃のあまり微動だにできないのだろう。時が動き出し彼の口から震えた声が漏れる。
「先輩」
「真面目な話どうなんですか?」
彼は幾年も経験を重ねた検事のような佇まいで僕を問い詰める。
うろたえたのは私の方である。転職してどうだったかを聞かれ、概ね満足していることを伝え、さらにはとっておきの具体例までコソッと伝えたのにこの態度。。
私も彼とは相容れないことを悟り、
「そうか、君はそういうやつなんだな。」
と冷たいトーンで告げた後、後輩を残したまま席を立ち、お会計を済ませて店を出た。
本格的な冬の到来を感じる風の冷たさが、人と人とが真に分かり合えることはない事を教えてくれた、そんな夜だった。
ちなみに二件目は焼き鳥屋さんでした。
彼は塩よりタレ派見たいです。
「社会に出れば理不尽なことだらけだから,子供のころから慣れさせたほうが良い」
そんなことがまことしやかに語られることがある.
文の前半部分は少なからず間違っていないことは,ある程度生きいれば自ずと理解してくる.
中学の部活に入れば先輩の言う事は絶対という風潮があるし,成績が良い子よりもお調子者の方が先生に気に入られ大学の推薦枠をもらえてたりする.
そして,冒頭の分の後半部分は,そんな理不尽なことがあっても,その境遇で負けないようにするために免疫をつけておこうというものだ.何となく一理あるような気もするしが果たして本当だろうか.
教育するうえで,我慢を覚えさせることは目先の利益だけでなく将来を考えた行動ができるような子に育てるという意味で重要だ.
しかし,耐えることが目的となるような,理不尽さに慣れさせるという事に関しては,子育てに有効なのだろうか?
自分で判断できない人間になるリスク
理不尽に耐えるという事は,自分が納得できないことを他者に強いられていることだ.将来の目的があって,現在の苦労をとるという論理的な行動とはまるで違う.
つまり,理不尽に慣れるという事は自分で考えることを放棄するという事である.
社会に出るとどういうことが想定されるだろうか.
旧態依然とした,経済がとても安定していて,能力よりも在籍年数で給料が決まるような場合は,なるほど何も考えず,先輩や上司に従っておけば,いずれは自分もそのポジションにつけるので良いこともあったかもしれない.
だが現在は終身雇用も崩壊し,個人の能力が求められる時代となってきた.すなわち,ただ上の人が言っていることに従えば甘い汁が吸える状況じゃないのだ.
果たして,そのような状況で理不尽に耐えることに慣れた人は敏感に自分が置かれた状況を理解し,良い選択がとれるだろうか.一度決まったことを愚直にやり続けるというのは美談によく上がる話だが,自分で決断した結果であればそれもありだろう.
自分の人生は自分で決めなければならない時代に,理不尽さに耐える能力がどこまで必要かは甚だ疑問である.
我慢する力というのは,判断力が伴って初めて生きる力である.
自己肯定感の欠如がもたらす恐ろしさ
理不尽さに慣れるということはもう一つ恐ろしいことがある.
自分の意見が毎度通らない環境に慣れるという事は自分の存在を否定され続けるという事である.すなわち成長する過程で自己肯定感を喪失する恐れがある.
自己肯定感が弱いとどうなるだろうか.
理不尽な環境でも理不尽と判断できないのだ.
これはとても恐ろしいことである.
例えば,先の上司の話に戻すが,客観的にみれば上司は理不尽で言っていることに正当性が無いとしても,自己肯定感の弱い人はまず自分を責めてしまう.
自分が悪いからこんなに怒られているんだ..となってしまうと,周りを変えるよりも自分一人で解決しようとしてしまう.そして極限までおいつめられると,最悪の結末なんてことも想定されてしまう.
親に言われるがままに,遊びを我慢させられ勉強をガリガリやらされた子は,全員同一の物差しで評価される大学入試までは,なるほど成功するかもしれない.
しかし,その過程で自己肯定感が消失してしまっていると,自分が判断することは基本間違っているという発想が根付いており,行動力が極端に低い子に育っている可能性がある.
冒頭の発現に戻ると,確かに子育てでは将来の理不尽さに対する何らかの対策は必要かもしれない.しかし,それは理不尽に適応する能力よりも,理不尽な環境を認知し自分で対策ができる能力を身に着けさせるべきなのだと思う.
要は「自己中で我儘に考えた方がいい状況もあるぜ」ってことをいい感じに我が子に教えたいなぁと思っています(基本は良い子でいてほしい..).
あいみょんから学ぶメッセージの伝え方
すでにメディアでの露出も多く、知らない人も少ないのだろう。
恥ずかしながら私は昨年末の紅白を見るまで知らなかった。妻が「良いよこの子」というので、他のアーティストを見るついでにテレビで見たのである。
マリーゴールドという曲だったのだが、その時は「あぁ確かにいいアーティストだなぁ」と思ったくらいだった。曲調もどこか懐かしく、三十代の私でも自然に受け入れられ、楽しめるアーティストだと思った。
本当の意味で「あいみょんすげー」となったのは、昨日Amazon music でラジオを垂れ流している時だった。
「愛を伝えたいだとか」という曲である。
曲調と声が、伝えたいメッセージの良さを凄く引き出していてグイグイ気持ちを引き込んできた。
そのあと気になってYoutube (amazon musicは曲が限られている)を開いた。
そこで出会ったのは「生きていたんだよな」と「貴方解剖純愛歌」である。
それぞれ、飛び降りしてしまった子の事を思うことと、好きな人を繋ぎとめたい女の子な気持ちを叫んだ曲である。
もちろん歌詞は強烈で力強く、曲調も楽しめるのだが、注目したいのはどちらの曲もメッセージを形にする工夫がとても秀逸であるという点だ。
伝えたい思いを形にするというのは中々難しいことだ。歌詞とメロディ、歌唱力で作品は成り立つが、歌唱力だけでは「歌うまいよね」くらいで終わってしまうし、歌詞だけでは聞き流されてメッセージに気づかれないだろう。
この二曲は伝えたいメッセージを如何に届けるかという事が念頭にあり、この三要素を如何に調和させるかが、凄く考えられている。
歌詞にはメッセージを伝えるための表現がちりばめられており、曲と歌い方はその表現を最大限に盛り上がるように調和されている。
この二曲を聞くと、彼女のメッセージが脳みそに叩き込まれるような気がして、まるで十代の多感な時期に引き戻されたような感覚になる。
我々の日常でも人に何かを伝える時、どのように伝えるかということは大事である。
ビジネスではメールなのか、口頭なのか、文面はどうしようなど考えながら、最適な方法を探りながらコミュニケーションを取る。
もちろん、日常で音楽をつかったコミュニケーションというのは難しいが(そもそもその技量も無い)人に何かを伝える,人の心を動かすために工夫できることは まだまだあるのだということを彼女の楽曲から学べました.
..なんて固いこと四の五の言わず聞いてみるがよろしいよ!